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「人は三度死ぬ」という技術者たち

大鉄工業株式会社 土木本部副本部長 土井保彦

「人は二度死ぬ」ということばをご存知でしょうか。このことばの響きから映画ファンの方は、半世紀近く前に封切された「007は二度死ぬ」というスパイアクション映画を思い出されるかもしれませんが、今回はその話ではありません。巷間伝えられる「人は二度死ぬ」の意味の「一度目の死」とは、その人が肉体的医学的に亡くなるということを意味します。次に「二度目の死」ですが、その人の生前の元気な姿を知っている人がいなくなることを意味します。夫婦、兄弟姉妹、友人・知人の類は、およそ同年代でしょうから、没後30年もすれば、生前の元気な姿を直接知っている人は少なくなります。

子や孫、甥姪ぐらいがせいぜいでしょうか。なるほど仏教の三十三回忌や五十回忌は、昔から弔い上げと言い、節目の法事とされてきましたが、没後30年や50年も経過すると、実際問題、故人を直接知っている人はほぽ皆無でしょうから、弔い上げという言い方も理にかなっているのかもしれません。

それでは「三度目の死」とは、どういうことを意味するのでしょうか。自己流の解釈で恐縮ですが、私はその人が生前成し遂げたことや考え出したことが完全に無くなることだと思っています。土木に置き換えると、その人が携わった構造物が無くなってしまうか役割を終えてしまうことであると思っています。

下記の写真は、当初の用途とは異なっていますが、100年以上経た今でも世人に愛され、使われている立派な土木構造物です。何を隠そう旧国鉄福知山線生瀬武田尾間の廃線敷なのですが、敷設は明治32年 (1899年)、当時、阪鶴鉄道という民営鉄道が建設しています。時代背景は、日清戦争後のまさに富国強兵・殖産興業の時代、阪鶴の名前が示すように日本海に面する軍港舞鶴と東洋のマンチェスタ ーと謳われた大阪を結ぶ鉄道の早期開設が、望まれていました。武庫川沿いの急峻な地形を縫うように建設されています。

ダイナマイトを用いての工事では、多くの殉職者も出たと伝えられています。建設にかかわった多くの関係者の犠牲の上に敷設されたと言っても過言ではないでしょう。技師や作業員にかかわらず、多くの血と汗と涙の結晶とも言えます。しかしそのような苦労の末の敷設でしたが、鉄道国有化の大きな波には逆らうことができず、阪鶴鉄道は鉄道省に編入されています。幸いにもその後の福知山線は順調に発展し、北近畿や山陰と大阪を結ぶ基幹路線として、また近年は大阪への通勤通学輸送も担う近郊路線の役割も果たすこととなりました。おそらく建設当時の関係者はその頃には全ての方が「二度目の死」を迎えておられたものと思われますが、国鉄最後の年である昭和61年 (1986年)、当該区間は複線電化のため別線に切替えられることとなりました。さすがにこれで命運も尽き、まさに「三度目の死」と思われたのですが、沿線の渓谷美や都心からの近さもあり関西でも屈指のハイキングコ ースとして生まれ変わり、現在にいたっています。その意味では、当時の建設関係者はいまだ「三度目の死」を迎えておられません。やがていつかはこれら構造物も朽ちるのでしょうが、100年を超えて用途を変えてもいまだに地域の人に愛され、慕われ続け使われている構造物を造った当時の関係者は、技術者冥利に尽きるのではないでしょうか。まさにこれこそが「人は三度死ぬ」と呼ばれる技術者であると私は確信しています。